お金と農業環境

インドやアフリカが飢饉になったといっても、遠い国の出来事のように感じますが、東南アジア諸国の米が凶作となると、世界的食糧事情の変化を痛感することになります。日本で食糧不安が真剣に心配されるようになったのは、オレンジなどの自由化を求めていたアメリカが大豆などの輸出を制限することになり豆腐の値段が急騰したときでした。農林省がこれまで総合農政というときは、作目としてみると、米麦は除外して、畜産と果樹と野菜を選択的拡大することを意味して、大豆や小麦は国際分業に任せるという方針であったのが、世界的食糧危機を背景にして、大豆、小麦も総合農政に組み込むことになりました。この考えを推 し進めるとなると、相当な財政負担をしなければならないことが容易に予想されますが、それをも推し切らねばならないのが世界食糧事情です。この世界的食糧危機は、地球温暖化であるとか、太陽活動の減少したためだとかいう議論まで生んでおり、米価審議会が気象台の専門家から長期見通しをきくという異例の議事の進め方をしたことひとつをとってみても、根深い根拠をもっていることが判かります。そのような悲観的見通しが一般化しているなかで、日本の米作だけは、生産調整をしているために、遇剰米はなくなっても潜在的過剰米をもっている、無闇に米価を引き上げたり、生産調整をゆるめることは危険で、世界の食糧危機と日本の米とを直接結ぴつけることは疑間だという議論があります。3年に1度くらいの国際的な的な波を浴びても、2年間安い外国農産物に依存する体制の方が食糧自給体制よりも良いという見方です。しかし日本の米に潜在的過剰米を生みだすカをもっているかというと、昭和47年の米の生産調整は作付面積は目標以上に減りましたが、10アール当り収種が史上第一となり、その結果需要がちょうど均衡することとなりました。48年は、食糧不安ということで、農林省は米の減産だけを強調することをやめて、むしろ無理に滅反しなくともよいと内々増産を指導したのでしたが、減産予定は目標より多くなってしまいました。これは日本の農業生産力の基礎の崩壊を意味していることで、一言にして記せば農家の家計を圧迫し米生産に対する意欲が枯渇したことを象徴するのです。米生産は兼業農家に依存する分がかなり大く、農外のお金の収入が次第に増加して、農家経済調査をやっている農家全体の平均では、収入の3分の2が兼業収入になっています。これは農家がお金のために兼業をしているのではなく、労働者が家庭菜園をもって自家用食糧の自給をして家計を補っているのです。事業農家は、統計上農家と数えられているうち2割しかなくなりました。こういう状態はお金にならず米づくりをやめる者や、荒し作りて委ねる者、委託してもらう者、農協などによる請負耕作に委せる者が多くなることが想像されるところです。機械化によって、作付調整で一旦は雑草に委せた田に稲を作付けることは可能かもしれませんが。日本的集約方式による高い反収を期待することはできません。生産調整を解除したばあいも、土地買いの声のかかるのを待って、雑草作を続ける者も半数位に達するがもしれません。そういった事情が機械化や請負耕作による合理的農業の定着を困難としており、それにも増して機械化や請負耕作を困難とする要素は、そこに必要となるオペレーターなど賃労働者に対して世間なみのお金を保証するほどの米価が約束されないことです。米価は米作農民の労賞です。飼料作物や大豆の自給を放棄したのも、国際価格に適応する農産物の価格では、農民のお金や労働報酬が余りにも少ないからで、米価が農産物のながでは最も有利であるのは、一般労賃の上昇にやや見合うお金の値上げを生産費取得補償方式で実現して来たからです。その結果が食糧の自給率40%です。これは世界どこの国に比べても低く、国の政治的独立を脅かす低さです。もしこれを改善することを必要と認めるなら生産者米価の引上げは、財政負担を覚悟して実行せねばなりません。根本に遡るならば、そもそもインフレによって、高度経済成長の負担を労働者や農民に押し付け、重化学工業に不当な重点を置き、日本列島を改造をしてきた経済政策そのものを改善するしかありませんでした。

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